[ 悠 々 日 記 ]/ YUYUKOALAのブログ

コアラのように悠々と日々暮らしたいと考えている、とある人の日記です

朝日新聞に“反「水からの伝言」に檄”というコラムが掲載されていた

NHKの「視点・論点」では「まん延するニセ科学」という解説が
放送されたようですが、


http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.youtube.com/watch?v=9LNRYsyWgEY:TITLE


朝日新聞12/11付けの夕刊の文化面「ブログ解説」では
“反「水からの伝言」に檄”というコラムが掲載されていました

反「水からの伝言」に檄


 今「水からの伝言」が熱い。正確には「『水からの伝言』を信じないでください」(物理学者の田崎晴明作成)が熱いのだ。
 物理学者の菊池誠は「と学会」会員として、年来トンデモ・擬似科学ウォッチングに勤しみ、疑似科学が人畜無害な趣味の域を超え、カルトや詐欺商売の道具として使われた場合には、率先して警鐘を鳴らしてきた。その彼や田崎ら仲間たちがこのところ注目してきたのが「水伝」である。「スピリチュアル」「癒やし」愛好家のおもちゃですんでいるならば別に良い。詐欺商売の嫌疑もないではないが、問題は学校教育の現場に入り込みつつあるということだ。
 学校でどう使われているか、といえばこれは主に道徳教育である。「水にも心があり、『よい言葉』には美しい結晶を作り、『わるい言葉』には汚い結晶を作る」(この辺はもちろんでたらめ)、そして人間の70%は水(これ自体はもちろん本当)なのだから、『わるい言葉』を使うと人間の心にも悪い影響が出るというわけだ。
 「水伝」を道徳教育で使う先生方の善意自体は疑わないが、これはまずい。学校で非科学的な嘘を教えられては困る。しかし嘘と知りつつ「嘘も方便」とばかりに「水伝」を使う先生方がいたら?「道徳の教材の多くはフィクションなのだから美しいフィクションとしての『水伝』を使って何が悪い」といわれたら?あるいは「私立学校では『嘘』とは言わないまでも、科学によらない信仰に基づく宗教教育が許されているのだから、『水伝』もそうした信仰として受け入れられないか」とか言い出したら?
 だから菊池たちの啓蒙作業は、断片的な知識や結論それ自体ではなく、そこにたどり着くまでの探求法としての科学の意義までを射程とする。そして事実と論理に基づいた開かれた共同の営みとしての科学が持つ市民生活にとっての大切さにまで広がっていく。パラフレーズすればこうだ。フィクションや信仰はそれを楽しみ、あるいは信じる人々の間の「お約束」に基づいているからこそ、嘘(あるいは事実ならぬ「真実」)であるにもかかわらず社会を壊さず、むしろ絆として働くことが出来る。しかしそうした「お約束」を共有しない、できない人々同士の交流は、事実と論理を手がかりとするしかない。科学的手法とはただ単に有益な知識を与えてくれる技術であるというより、そうした社会的作法である。単なる趣味にとどまらず商売、そして公教育に進入した疑似科学のタチの悪さは、単にその嘘やでたらめにあるのではなくそれを濫用してしまい、フィクションや信仰、そして科学それぞれのルールを破って、ご都合主義的につまみ食いするところにある。
 フィクションだの宗教だの、話がここまで来ればいよいよ人文系、それも学者以上に作家など「文人」の出番だと思うのだが、いまのところ人文系知識人の出足は鈍い(例外として中国文学者の大野圭介「林斎雑志」)。「水伝」を言葉への侮蔑と喝破し「人文に関わるもの、文学者、数多の表現者こそ『水からの伝言』に怒るべきだ」と檄を飛ばすギャラリー(「Chromeplated Rat」)に、いかに応えていけるのか。


稲葉振一郎明治学院大教員)

大手新聞でこの話題が取り上げられたのは啓蒙としてもいいことだと思います。
個人的にはちょっと読み難い文章でしたが。