「バッテリー」の あさのあつこ氏が一連の高校野球報道に苦言を呈す
8/28の読売新聞朝刊の文化面で、
「バッテリー」などの著作で知られるあさのあつこ氏が
高校野球の決勝再試合について、こんな文章を寄せていました。
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第88回高校野球選手権大会は、見事に熱く、鮮やかに、劇的に幕を閉じた。甲子園がまた一つ、後の世に語り継がれる野球ドラマを生んだのだ。それにしても、まあ、よくここまで役者が揃ったものだと、感嘆する。/これが物語なら、あまりに盛り上げすぎてリアリティーを欠くと一笑されかねない設定だ。野球の神は、ドラマそのものの設定を現実の甲子園に与えた。これが野球の醍醐味なのだ。/神の声が聞こえそうな決勝戦だったではないか。
(抜粋)
と、まずは試合内容について賛辞を贈る一方、
決勝戦をめぐる一連の報道騒ぎについて、
このように苦言を呈していました。
ただ、わたしの臍が曲がっているせいなのかどうか、誰もがやたら感動し、一部の選手に群がり、浮かれまくる今回の騒ぎがどうにも気持ちが悪い。いたたまれないほどだ。決勝を闘った2校だけでなく、地方大会も含め、この夏、たとえ1試合であっても野球とともに生きたすべての球児を称えたい。/
問題は大人たちである。選手たちが必死に闘った野球というものを安っぽいドラマにすり替えようとする。努力の、友情の、チームワークの、師弟の、兄弟の、親子のドラマにすり替え、演出しようとする。/
野球は、感涙のためのちゃちなドラマなどではない。人間の号と知と運命が複雑に交差し縺れ、揺らぐスポーツだ。深く人間を抉りだす。私はそう信じている。/
(駒大苫小牧の田中くんのあの眼は)紛れもなく投手の眼だ。彼はたぶんマウンドで投げ続ける業を知っているのだろう。彼なら、軽薄な大人たちが、これでもかと押し付けるドラマをこなごなに砕いてしまえるのではないか。/
来年もまた、業を背負いながらマウンドに立つ投手を見たい。
(抜粋)
これは、安易に感動ストーリーとして消化してしまう風潮への警鐘であると共に
そのような風潮を安易に作り上げる、メディアへの批判でもありますね。
ところで、この中で使われているこの写真は、
まさに高校野球決勝戦の「業」を見事に表現していました。
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この瞬間、彼の胸に去来したものは果たして何だったのでしょう。