[ 悠 々 日 記 ]/ YUYUKOALAのブログ

コアラのように悠々と日々暮らしたいと考えている、とある人の日記です

週刊文春での『ちはやふる』の書評「末次由紀は、読者に許された」

今年1月の朝日新聞の書評で、

たとえ一度失敗しても、挫折しても、あきらめずに思い続けるまっすぐな情熱と、復帰を待っていてくれる人がいれば、人はまた立ち直って歩き続ける。これは、一度は挫折した作家・末次由紀にとっても、見事な復活戦である。
http://d.hatena.ne.jp/YUYUKOALA/20090114/Chihayafuru:TITLE

と評された末次由紀ちはやふる』について、
今度は週刊文春の書評で取り上げられていました。
評者のいしかわじゅん氏は書評の中で
末次由紀の過去の不祥事に敢えて触れた上で、
「描き手は、作品を世に出すことでだけ、許されるのだ。
 末次由紀は、読者に許されたと思う。」
と書いていました。
 
:W350
 

漫画の時間 いしかわじゅん
ちはやふる』1〜5巻(講談社
 
彼女の見た夢は
 
 夢がなくては、人は生きられない。
 漫画家・末次由紀は一度夢を失くし、もう一度それを手に入れた。自分の漫画の主人公、綾瀬千早と一緒に。
 『ちはやふる』は、競技かるたを題材にした少女漫画だ。
 かるたは、小倉百人一首を読み上げて札を取り合う。正月のニュース番組でしか見かけないマイナー競技だが、奥は深い。そして濃い。五十枚の札を巡って濃密な精神的闘いがあり、格闘技のような肉体的衝突がある。
 少女は、ふとしたきっかけで、転校生の少年が競技かるたの達人であることを知り、そこから奥深いかるたに足を踏み入れ、 一気に新しい世界が開けていく。
 同志との軋鞣がありその結果生まれる連帯感があり、少女漫画に欠かせない幼い恋もある。文化系的悩みもあるし、体育会的苦悩もある。読み進んでいくと、和歌の世界にも、少しだけ詳しくなる。
 畳に並べられたかるたをただ取り合っているだけなのに、この物語はなんて美しいんだろう。
 それは、少年少女たちが、努力の意味を知っているからだ。未来はただ座って待っているだけではやってこない。それは、自分の意志で欄み取るものなのだ。はしいものはほしいと口に出し、なおかつ行動で示さなくてはなにも始まらないのだ。
 美しい少年少女たちは、夢を信じたのだ。
 今さら蒸し返されるのも辛いだろうが、末次由紀は、ほかの漫画家の絵や構図をそっくりそのまま大量にコピーしトレースし、自分の作品に使っていた。それが発覚して、連載は打ち切られ、既刊の単行本二十五冊は、すべて絶版になった。
 つまり、末次由紀は漫画界から追放されたのだ。それは仕方のないことではある。
 これでもう終わりだろうと思っていた。出版社が再登場を許すかどうかではなく、末次由紀にはもう、再起の力はないだろうと思っていた。 一度袋叩きに遭って切れた気持ちを、また掻き立てて起ち上がるのは非常に難しいことだと思う。そこまでの気持ちは末次由紀にはないだろうと、ぼくは判断したのだ。
 二年後、同じ出版社の本で彼女は読み切りを描いて復帰した。そして次の年、『ちはやふる』の連載を始めた。
 末次由紀は、夢を持っていたのだ。叩かれ倒れたが、それでも夢は捨てずに持っていたのだ。自分の物語を、世に出したいと思っていたのだ。その物語を、読者に読んでもらいたいと願っていたのだ。描き手は、作品を世に出すことでだけ、許されるのだ。
 末次由紀は、読者に許されたと思う。
 

週刊文春 2009年7月2日号より)

 
また、いしかわじゅん氏自身が開いているサイトでも
このコラムについて触れています。
 
:W350
 

今週の週刊文春には、「ちはやふる」のことを書いた。
 
あの、末次由紀だ。
知ってる人は知っているが、彼女はほかの漫画家たちの絵をトレースして、
自分の漫画の中に大量に使い、それがバレて漫画家生命を一度失った。
なにせ、連載が打ち切りになっただけでなく、
それまで出した単行本20数冊がすべて絶版になったのだ。
本人の蒔いた種とはいえ、厳しい処置だった。
ほかの漫画家の影響を受ける漫画家はいる。
うっかり似たものを描いてしまうケースもあるだろう。
ぼくだってずっと以前、他の漫画家のキャラを気づかず描いてしまったことがある。
しかし、そういうケースとは違い、
確信犯として写す者もいる。
窮余の策として盗むものもいる。
彼女がどういうつもりで他の漫画家の絵を盗んだのかはわからない。
でも、それはやはり非難されてしかるべき行為だった。
もう戻ってはこないだろうなと:思っていた。
ネットを中心に、あれだけ叩かれては、もう立ち直れないだろうなと思っていたのだ。
検証サイトもできて、証拠がいくつも提示された。
言い逃れはできない。
それでも、末次由紀は戻ってきたのだ。
2年、間をおいて、同じ講談社で読み切りを描き、
ちはやふる」の連載を始めた。
描きたかったんだなあ。
漫画家は、描きたいのだ。
描いたものを、読んでもらいたいのだ。
末次由紀は、戻ってきた。
ちはやふる」は、面白い。
5巻まで出ているが、すべて夢中で読んだ。
これが描きたくて、末次由紀はまた嵐の中に船を出したんだな。
きっといろいろいう人はいるだろうが、それは仕方ない。
彼女は、いい仕事をしていくしかないのだ。
それが、赦しなのだ。

 
http://ishikawajun.com/main.html:TITLEより、原文ママ

 
朝日新聞の1月の書評では、紙幅が限られているということもあり、
「一度は挫折した作家・末次由紀」と触れるに留まっていました。
一方、いしかわじゅん氏の今回の文春の書評及びHPコラムでは
過去の「トレース騒動」に敢えて触れた上で、
漫画家という描き手の立場に再び戻ってきた末次由紀
「赦し/許し」という言葉で評していました。
 
ちはやふる』という作品の出来が素晴らしい事は
繰り返し触れており、改めて言うまでもないことですが、
この作品を描き続けることが、そして読者が受け入れることが
末次由紀にとっての「赦し/許し」に繋がるというのは
なるほどと頷ける例えです。
 
それにしても、「赦し/許し」という言葉は重いですね。
末次由紀が背負った業(ごう)は、
それだけ重いということなのかもしれません。